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あぐらぐち物語 1999年10月分



1999年11月11日


今日は、バザーのゴミを松任クリーンセンターへ持っていった。主に、段ボールと少しの不燃物だったが、失敗した。リサイクルの施設で、段ボールも資源として引きとってくれるのかと思っていたら案内されたとことは、焼却炉の前。それなら、去年のように業者に引きとってもらうべきだった。どうりで、話しがかみ合わないと思った。


1999年10月31日


バザー大成功!売上も、175万円、記録を更新し、創意工夫で、経費を削減したので、利益は100万円の大台に乗ったかもしれない。商品を提供してくれてた方々に面目が立った。そして、買ってくれた地域の方々に感謝である。バザーの運営でがんばってくれた全ての方にご苦労様を言いたい。こんな大きな行事、一人で出来る訳もないし、やはり伝統の力が大きいとつくづく感じる。
次は、このお金の使い道が、問題。やはり、チャリテイーに使う機運が自然に盛り上がればと思っている。少しづつ、少しづつではあるが、盛り上げて行きたい。でも、スクールバスも欲しいなあー。頭金位にはなるかも。


1999年10月30日


朝から、バザーの準備。今年は、花が少ないので、野々市後継者グループの北さんに、バラと菊をもらって、花束にしたり、仏事用の花に束ねて、付加価値を上げて並べた。その他にも、バレンタインズのボカール今本さんに、ポインセチアを提供してもらったりして、品数を増やしたので、なんとか様になった。もちろん、我が社の揚げカキモチ「頑固揚げ」も100袋提供した。
商品陳列の作業もスムーズに、進んで早く終わったのだが、最後の役員チェックで時間がかかった。というか、値段を付けるのが楽しいのだろう。切りがないから、止めさせたが、「オッ、これはブランド品!」「これは、この値段じゃ、おかしい!」と、熱気を帯びてきていた。値段とは、その人の価値観そのものなので、あんまり変更すると、担当者に悪いので、適当のやっておくのが、肝要である。後は、明日の天気次第。うまくトラブルもなく進めばいいが。


1999年10月29日


午前中、藤陰幼稚園の脱穀に妻と出かけた。今回は、足踏み脱穀機を2台揃えた。なんと、我が社の近所の人が持っていたのだ!聞いてみるもんだ。おかげで、この前の小学校の時より沢山脱穀できた。それにしても、60人の園児を相手にするのは、パワーがいる。終わってから、子供達から、歌のプレゼントがあった。この歌のプレゼント、中村町小でもあったが、実は、弱いのである。結構、ジーンと来るので、困ってしまう。なんというか、すごい気が一斉にこっちに飛んでくるのである。そして、子供達手作りのカレーを食べて帰って来た。
夕方には、バザー用の野菜を県立農業短大へ取りに行った。そのころ、ライスセンターでは、専務が、足踏み脱穀した小学校と幼稚園のモミスリに苦労していた。やはり、モミにワラが混入しすぎて、機械を通らないのである。来年は、ついに「トウミ」と呼ばれる、手回しの、風でモミとワラを分離する機械が必要になってきた。どこかに無いかなあ。


1999年10月28日


大豆の選別機を入れるために、ライスセンターの正月用カグラモチを全部、農協の倉庫に入れさせてもらった。年末に向け、精米をしてもらう為もあるが、正直、大豆の選別のスペースがとれなかったので、助かった。今年は、例年より、収量があるようで、ライスセンターが大豆で一杯だ。
今年の大豆は、お米と同じで、消毒は一切しなかった。大豆は、消毒をしないと虫害がかなりひどくなるので、普通はするのだが、今年は散布しないという大豆栽培農家にとっては、暴挙に出た。ただし、減農薬と言っても、買取り価格が高くなるわけでもないので、もったいない気がする。味噌や豆腐にして、付加価値を上げればいいのだろうが、こんなに沢山の大豆を加工しきれないし。それにしても、もったいないなあ。


1999年10月27日


午前中、藤陰幼稚園の脱穀の予定だったが、雨で流れた。午後はもちつきだったが、青年塾の段取りをしていて私は何も出来なった。そろそろ、小作料の計算をしなくてはならないのだが。これに関しては、私でないと出来ないので、大変だ。


1999年10月26日


昨日は、渋谷で塾長と今後の青年塾の運営について話し合いをした。その後、塾長の講演会におじゃまし、話しを聞いてから家に帰った。たまに、志高い話しを聞かないと、私も弱い人間なので、今回は、かなり充電できたように思う。それにしても、こんな偉い先生と、果たして私が話しをして、青年塾の中心的人物になっていいのかと自問自答してしまう。大変、ありがたいことである。
今日は、午前中、福井県からの見学。午後は、暮起こしをした。大豆刈り取りももう少しである。ようやく、先が見えてきた。


1999年10月26日


昨日は、渋谷で塾長と今後の青年塾の運営について話し合いをした。その後、塾長の講演会におじゃまし、話しを聞いてから家に帰った。たまに、志高い話しを聞かないと、私も弱い人間なので、今回は、かなり充電できたように思う。それにしても、こんな偉い先生と、果たして私が話しをして、青年塾の中心的人物になっていいのかと自問自答してしまう。大変、ありがたいことである。
今日は、午前中、福井県からの見学。午後は、暮起こしをした。大豆刈り取りももう少しである。ようやく、先が見えてきた。


1999年10月24日


現在、朝の5時。今から、栃木県宇都宮まで、日本農業経営学会へ「経営発展のおける情報システム活用の現状と課題」というテーマで発表に行く。パワーポイントでツールは作成したが、全然練習していないし、もしかしたら、OHPかもしれないので、ぶっつけ本番みたいなもので、不安だ。それが夕方で終了、夕方、東京で久しぶりに、大学時代のデザイナーをやっている友人達に会う。明日は、上甲塾長と会う約束である。結構、ハードな旅になりそう。
昨晩、子供にせがまれ、バッテイングセンターなるものに、20数年ぶりに行った。子供達は、70キロの球をたまに、当てる程度だったが、よほど楽しかったのか、帰ってきてさも沢山打ったように、妻に話すのが、おかしかった。自分も打ったが、なるほど、スカッとする。長男が、隣のスーツで打っているお兄さんを評して「セールスに疲れて、ストレスを解消しに来ているんや」言ったのには、一体どうしてそんな発想が出来るのやらとビックリした。まさしくホームラン。


1999年10月23日


朝、雨が降っていて、豆刈りは中止。晴耕雨読でスタッフ一同はお休み。午前中は、明日の発表の練習や来客があって、お店の方は忙しかった。午後は、小学校のバザーの商品搬入、値段付けをした。やはり去年に比べ、商品数は少ない。最近の傾向として、商品数は少ないが、売上はちゃんとある。つまり、捨てる商品が少ないということになる。バブルの頃は、スゴイ量のゴミが出たらしい。しかも、学校の焼却炉で何日もかけて燃やしたというから隔世の感がある。


1999年10月22日


ケイカル散布終了で、暮起こしを再開。久しぶりに愛機クボタL1−43号トラクターに乗った。購入して14年、3800時間使用している。キャビン付きだが、幌はボロボロ、タイヤも磨り減って、直噴エンジンらしく、黒煙をモクモクだして、轟音を響かせ、バリバリ振動しながらの作業なので、専務あたりは、いい加減に新機種にしたらと言うが、お金もないのもあるが、自分自身は結構気に入って乗っている。就農してすぐに購入し、苦楽を共にしてきたという思い入れがあるのである。目標、6000時間!おそらく、前輪がもげるだろうと言われている。実は、今年一度もげているが、直した。まだ行けるはずだ。


1999年10月21日


朝からケイカル散布をして、20キロ×1770袋を第3クォーターまでに終了した。やっぱり、新兵器ブロードキャスターは早い!我が社の一日の作業は、2回の休憩と食事を挟んで、4つに分けられている。だから、打ち合わせの時、第何クォーターに、何々をするという風に話している。アメフトみたいだが、これが一番分かりやすくて間違いがない。ちなみに、もちつきの場合、第7クォーターまである時がある。
そして、必ずクォーターごとに、しっかり30分休憩をする。しかも、10時30分の午前の休憩、3時30分の午後の休憩と、よほどの事が無い限り時間になると、作業の途中でも休憩所に帰って来る。普通の農家は、切りのいいところで、休憩をするので、休憩時間は不定期である事が多いし、ましてや休憩所にわざわざ帰って来て、30分も休むことはありえない。これには、いくつかの理由があるが、時間を決めることによって、分散しているスタッフが一堂に会うことが出来、そこで作業の打ち合わせが出来る。そして、ここがミソなのだが、外部のボーイズ、レディースも、その時間にくれば、我々に会えると思って、用がなくても顔を見せるのである。それが、我が社のリピーター率の高さを保ている理由の一つである。そして、おそらく日本一休憩時間の長い農業法人だと思うが、この30分の間に、仕事の事、社会の事、プライベートな事と諸々の情報を共有することによって、会社の経営理念を実現しているのである。特に農業は、天候や作業の進み具合によって、段取りが頻繁に変わるので、この打ち合わせによって返って効率を上げている。しかし、巷のうわさでは、社長の話しを聞く為の時間とも言われているが、誰も私の話しは聞いていないのが実情である。
そして最後の理由が、トイレ。女性の働き手が多いので、必ず休憩所に帰る必要があるのである。特に、トイレに関しては、農業法人の中でも、男女別にウオシュレットを完備して日本一を自負している。女性が仕事場を決める時の重要な要素がトイレなのである。あなどるなかれ。


1999年10月20日


午前中、滋賀県からの見学の方々の応対をした。20名を超すと会議室に入り切らないので、JAの2階を借りて話しをしている。今回も30名余りだったので、JAで話しの後、工場とライスセンターを見せるというコースだった。汗をかきかき、一生懸命話すしかないが、おかげで、お店で沢山、商品も買ってくれて良かった。その後、すぐにケイカル散布を一日していた。もう一日あれば終了しそうだ。一刻も早く暮起こしにかかりたいところだ。しかも、大豆の刈り取り、もちつきもあり、この時節が一番、気ぜわしい。


1999年10月19日


大豆の刈り取り開始。ということで、私は一日ケイカル散布をした。ブロードキャスターという散布機械で、ブゥワアーと言う感じで、200坪ほどの田んぼ1枚に100キロのケイカルを一気にまいてしまう。このケイカルは、珪酸質と言って、植物には切っても切れない物質を土に供給するもので、このおかげで、殺虫殺菌剤もまかなくて済むし食味も良くなる代物である。かの有名な魚沼も、いもち病対策にこれを散布し続けて現在に至っている。ただし、土作り資材は、ピンからキリまであって、まだまだ良いものは存在する。さんご礁、戸室石、海草、貝殻、カツオドリ鳥の糞と切りがないが、現在のところ、マーケテイングの中でのギリギリの選択でケイカルを散布している。それでも、全部散布してトラクターで耕す作業が年内に完全に終了したことがない。どうしても少し残ってしまうのだが、今年こそはと、気合を入れてやっている。そのために、去年わざわざ、高いブロードキャスターを購入したのである。土作りが、農業で一番難しいと実感している。
久しぶりの映像は、足踏み脱穀機で奮闘しているシーン、おかげで、今日は腰が痛い。



 


1999年10月18日


午前中、富陽小学校のもち米の脱穀をした。足踏み脱穀機でやったが、楽しくやれた。ただ、二時間近く片足で、立って足踏みベダルを踏み、さらに子供達に手を添え、話しかけながらは、大変だ。でも、あの脱穀機のクシでモミが、ザーと取れるのは快感である。去年は、コンバインに通したので、それまでだったけど、今回は苦労しているし、自分で脱穀したので、みんなで自然に手分けして、アミを通して、ワラを取ったり、袋に詰めたり、もちろん、その辺で遊んでいる奴もいるが、それぞれが出来ることをしていると言う感じで良かった。しかし、前回稲刈りした分の半分だから、60坪分位しか出来なかった。昔は、脱穀で冬までやっていたそうだから、百姓の苦労が分かる。


1999年10月17日


早朝小学校の大掃除があって、それからバザー用の芋掘り、その後、野々市町農業祭りに野々市町農業後継者グループの大学イモに出かけた。今回は、販売ではなく、農産物のアンケートに答えてくれた人に、大学イモを無料で配ったので、すごい勢いで、当初の予定300個は、アッと言う間に無くなり、もう80個追加したが、これも瞬間だった。集計はまだだが、結構面白そうだった。


1999年10月16日


朝から雨で、現場は農休。もち工場の方は、明日の野々市町農業祭りの準備。私は、24日に栃木県で行われる日本農業経営学会でのプレゼン資料の作成をやっていたが、難しい。内容が情報システム活用だが、私の場合、独特なので、どう表現すればいいのか。「志」とか「気」とか「波動」とかが出てくるので、学者さんには、伝えにくい。


1999年10月15日


小雨が降る中、藤陰幼稚園の稲刈りをした。1時間ほどでなんとか全部刈り取ることが出来て良かった。今回は、保護者の方も多く来られていたので、束にして結ぶのも、滞らず出来たが、カメラ片手に何もしないお母さんもいて、来年は、鎌持参を義務付けしようかと思っている。
午後は、雨が強くなって現場は自習。私は、簿記の記帳、久しぶりにお金の動きを見たが、最近は複雑な動きが多くて、仮決算しないと儲かっているのか、儲かっていないのかサッパリ分からない。昔は、農協からドカッと米代金が入って終わっていたので、分かりやすかったが、その後は一切お金が入らないので、寂しい思いをする。早いとこ計算しなくては。


1999年10月14日


昨晩のバングラデシュの話しは、あせった。MOにデジタル映像を入れて行ったのだが、肝心のパソコンが、MOを認識せず、色々やっているうちに、セーフモードに入ってしまった。しかし、時間が来たので映像無しで話しを始めたが、いかにもツライ展開だった。しばらくして先生達の努力で、なんとか立上がり、プロジェクターで、写真を出しながら出来た。そして、みんな真剣にかつ楽しく聞いてくれ、終わった後の感想も皆さん素晴らしくて良かった。いつも、こんなにうまくいくといいな。
今日の午前中、鳥越小学校へ足踏み脱穀機を借りに行った。浄土真宗系の幼稚園の為らしく、一向宗最後の砦、鳥越で借りる事が、出来たのも何かの縁であろう。午後は、もちの袋詰めをした。四十万小学校仕様だったので、特別な袋詰めをした。袋の姿というのは、実に売上に影響するので、なるべく量があるように見えてかつまた、綺麗にせねばならない。精一杯したので、完売することを祈るだけである。


1999年10月13日


午前中は、米ぬかを取りに来た農業青年の黒沢君と話しこんでしまい、ろくに仕事もせずに終わった。同じ地域に住んでいても、案外会わないもので、たまの情報交換は貴重である。
午後は、もちつき。持ちこみの餅米をついたが、量も結構あり、汗をかいた。一つは、四十万小学校の子供達が作った餅米だが、セイロから出すと、もう1軒のとは、輝きが違った。子供達の気持ちがそうさせたような輝きが印象的だった。バザーで売るそうだが、きっと美味しいはずだ。
今晩、富陽小学校で、バングラデシュの井戸掘りの話しをする。非常にバランスの難しい「援助」という内容だから、うまくいくか不安だ。援助しすぎても依存するし、しないとつぶれるし、バランスだな。


1999年10月12日


帰ってきて、すぐにケイカル散布、暮れ起こしと作業開始。午後は、バザーのチケット集計。ただ、私は、なにやらウロウロしているうちに一日が終わってしまった。まだ、グアムぼけだ。

グアムレポート
10月8日
なんと朝3時半出発。関西空港へは、8時40分着。寝ぼけているうちに、10時40分発で、グアム時間で午後3時頃到着。総勢14名の団体だが、皆さん顔見知りだし、団体としては動きやすい単位なので、全てがスムーズに運んだ。妻にいたっては、機内のビンゴゲームでビーチサンダルが当たり、買わずに済んだと大喜びだった。その日は、ホテルのビーチを散策して終わったが、予定がユックリなので楽だった。部屋から国際電話をかけたが、クリヤな音声で、ビックリ。本当にグアムにいるの?と言われそうだった。
10月9日
朝8時40分集合で、島内観光出発。予想通り、とにかく免税店巡りで、肝心の観光なんて、バスの窓からちょっと見るだけ。グアムでは、55年前、米軍と熾烈な戦いがあって、ここが陥落した結果、B29の爆撃に戦闘機の護衛機が付く様になってしまったなんて話は、どこにも出てこない。チョモロ人という原住民の歴史や背景についても、ほとんど説明はないし、自分としては不満だった。ブランド品など全然興味のない我々夫婦は、結局何も買わずに、お土産にTシャツと自分用の服を現地調達しただけだった。困ったなと思っていたら、ガイドさんが、2軒目で、帰りたい人は、周遊バスで帰っていいですよと言うので、さっそく帰って、ビーチで泳いだ。とにかく海が綺麗で、ビックリ。ナマコがウヨウヨいたり、さんご礁で足が痛かったり、リーフから向こうはマリアナ海溝で一気に何千メートルに落ちこんでいて、今までも何人も帰って来なかったというし、見るものすべてが珍しかった。明日のために、ツアーデスクでレンタカーを借りた。ポンテイアック ファイアーバードTバールーフ3800ccを借りたが、ムスタングのコンパーチブルでも6時間で100ドル位で、とても日本では借りれない値段と車種である。
夜は、韓国料理を食べようと、妻と地図を見て歩いて出かけたが、なんとカセットコンロと鉄板の普通の焼肉だった。こんな風に外すのも旅の楽しみの一つだろう。
10月10日
朝9時、ホテル前のレンタカー会社へ出かけて、手続きをしたが、ビデオでグアムを走る諸注意を聞いて、ハイどうぞとキーを渡された。あんまり簡単なので拍子抜けするが、肝心のシートのアジャストや、細かい操作が分からず、最初は、全然足は届かないし、サイドミラーはあっちを向いているしで、困っているうちに、ドンドン走っていってしまった。結局、一番前の一番上へ、アジャスト。まるでこれじゃ、初心者おばちゃんドライバーのハンドルしがみつきスタイルではないか。まあ、格好は、置いておいて、ラジオから流れるラップを聞きながら、グアムの海岸線を走る気分はもう最高。ホテルロードを離れると、全然日本人もいなくてローカルビーチで現地の人達がバーベキューをしたりして楽しんでいた。途中、誤ってアンダーソン空軍基地へ迷い込んでしまい、ゲートで「ヘイ!」と米兵に呼びとめれてびっくりした。おそらく、ここまで侵入した観光客も私達だけだろう。途中の海は、もうホテルのビーチよりもっと綺麗で、白い浜で、南国にいるという実感があった。そうこうして、夕方帰って来たが、さすがに、右側通行は肩がこってしまった。特に左折は怖くて、前走車がいれば問題がないが、一人だと不安であった。しかし、少し、グアムが身近になった気がした。
夜は、近くのホテルへ、みんなでマジックショーを見に出かけた。最後の夜なので、ホテルのバーで妻と飲んで、楽しんだ。とにかく、テンコ盛りの一日だった。
10月11日
出発の日だが、今回のツアーはゆとりがあって、午前中一杯もフリー。ホテルのビーチでサイクルボートを借りてリーフのそばのさんご礁の島までこいで行った。久しぶりに命の洗濯が出来た。夕方の便で関西空港へ、バスで深夜に到着。思い出一杯の旅行だった。


1999年10月7日


モミスリ終了。カグラモチの収量は、464キロだった。今年は、500キロ行ったのが、無農薬イセヒカリだけだったことを考えると、一体どこが作況指数102なのか分からない。それとも、やっぱり作るのが下手なのか、コンバインに穴でも開いているのか。煩悩は尽きないが、結果は結果である。ただし、例年より面積が多い分、量的には、去年よりあるので、決算でどうなるか、シュミレーションしてみる必要があるようだ。
そのために、ようやく事務作業を開始した。事務作業と言っても、机の上の書類の山をまず崩すことから始めねばならない。結局、一日かかってようやく、机の面が見えてきた。それにしても、よくもまあ、こんなに送ってくるもんだ。損紙として、封筒として、再利用はするが、綺麗に印刷されたパンフレット類は、どうしようもないので、ゴミになってしまう。しかも、同じ種類のものが、沢山ある。困ったものだ。
いよいよ、明日から11日まで、グアム旅行である。初めてのパックツアー。楽しんで来よう。しかし、出発に当たり問題が発生。来て行く服がないのである。リゾートウエアというものを持たない夫婦なので、現地調達に決めた。ますます、スーツケースは、ガラガラだ。では、行って来ます。


1999年10月6日


今日は、盛り沢山だった。午前中、富陽小学校の稲刈り、午後は、もちつき、もちろん、モミスリも平行して行っていたし、四十万小学校のカグラモチのモミスリもあった。小学校の稲刈りは、去年、私が風邪でダウン。落ち穂だらけにしてしまった経験を生かし、今年は、シッカリ拾ってもらい、ワラで縛って、学校のベランダにハサ掛けで干した。刈るのは簡単だが、それを束ねて、縛ってハサ掛けに時間がかかる。結局、全部刈れなかったが、2時限ではあれが限界だろう。100人でやって、180キロ分、年間の大人3人分の量しか確保できなかったと言ったら、みんな、「あんなに運んだのに、たったそれだけ!」とビックリしていた。そうなのである、そんなに沢山はとれないのである。足りない分は海外に依存しているということを、体で分かってくれたと思う。
ようやく、新モチ米での、もちつき。まだまだ、暑くて汗をかきながらの作業だった。研修生の板垣君も勝手が違い、とまどっていたようだが、彼のことだ、すぐに慣れるだろう。問題は、マーケテイングの意味を分かるかどうかであろう。


1999年10月5日


朝から、ひたすらモミスリ。この時期、もちつき、ケイカル散布、暮れ起こし、催事販売、そして小学校のバザーと色々重なるので、普段使わない脳が痛くなる。おまけに、8日から11日まで、生産組合の研修旅行と称して、グアム旅行がある。いままで、まともな海外旅行に行ったことがないので、どういして過ごせばいいか良く分からない。旅行案内を見ても、さっぱりイメージがつかめない。あんまり、マリンスポーツって感じじゃないからなあ。ビーチで読書だな。渋すぎるか。


1999年10月4日


稲刈り終了! 後は、小学校と幼稚園に手刈り用の田んぼが少しあるだけである。一時はどうなるかと心配したが、なんとかなるもんだ。
今年の米は、ライスセンターのパーテイーで音楽を聴かせてあるので、より一層、良い気を持った米になったと思う。特に、カグラモチは、神楽というくらいだから、音楽と相性がいいはず。完璧だ。


1999年10月3日


昨晩の西田君の結婚パーテイーは、非常に盛り上がった。趣旨どおり、マイ箸、マイコップ、マイ皿もみんなで持ちこんで、ゴミも少なかったし、手作りの料理もすべて食いつくした。マイ楽器も持ちこんでの、演奏も素晴らしかった。おかげで、二日酔いになったが、うまく雨が降って、町内運動会は中止になって、ハシゴもしなくて良くなった。もし、晴れてやっていたら、きっと落っこちていただろう。


1999年10月1日


昨晩、稲刈りの後、ハシゴの練習に行ったら、なにやらアミダくじを作っているので、聞いたら今度の運動会で誰が乗るかを決めると言い出した。ゲー!聞いてないよーと言ったが聞き入れてもらえず、くじを引いたら、1番を引いてしまい、去年に引き続き運動会で、ハシゴを披露することになった。母親や校長先生には、絶対に乗ってくれるなと言われているので、本番まで内緒にしておこうと思う。それにしても、アミダくじとは。
そして、こんな時に限って、運動会のリレー選手の40歳以上の部で出てくれと、言われた。えーまだ39歳ですよと言ったが、これも聞き入れてもらえなかった。妻に話すと、なんでもかんでも、ハイハイと引きうけるから、悪いんだと言われる始末。たしかに「イエスマン」なのかもしれない。自分の利益にならないことは絶対に引きうけない人の多い、このご時世、「イエスマン」も必要だと思うのだが。





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