戻 る  はやっさんちのTOPへ

日記を、日付順に、読みたいので、1番下へ行く

あぐらぐち物語 1997年11月分


1997年11月30日

常光利惠さんが当選しました。26名立候補で22名定数のところ19番目で当選でした。これで志の 戦いに一つ勝利したという感じです。組織も、金もないただの主婦が、これもまた志のみの運動員に支 えられての勝利はこれからの新しい風となる予感がします。自分自身は、木曜日の越中屋先生が倒れて からの戦いがあまりにもきつかったので、うれしいというより、ホッとしているのが本心です。
それに、これからが実は本当の戦いなのです。ようやくスタートラインに立ったに過ぎません。応援し ていただいた方々には感謝とともに、これからも支えてやってほしいと思います。
しかし、選挙というのは実にデジタルで、当選したら一体こんなに人がいたかと思うほど、次から次へ と人が来てビックリした。兵隊は一人静かに家に帰って、これからビールでささやかに乾杯です。


1997年11月29日

選挙最終日、歩いて練り歩いた。自分は、運転手だったが歩くスピードでの運転で精も根も尽き果てた。 しかも、そのあと深夜までもちつき、そして今から事務所へアンプとスピーカーを取りに行かねばなら ない。結局30キロ以上は歩いているが、やはり候補者というのは超人的だなと感心した。


1997年11月28日

早朝から、晩までずーと選挙カーに乗っていた。誰も代われる人がいないから仕方ない。一日、助手席 に候補者がいたが、すごい迫力だった。しかし、昼に昨晩倒れた福祉専門学校の先生が亡くなられた。 病院に様子を見に行った時に知ったのだが、帰って来て一言「亡くなられました。」。目に光る物はあっ たが、すぐに車上の人になって「お願いします。」と手を振っておられた。
自分も、こらえるのが精一杯だったが、先生の奥さんが、故人も本望だったとおっしゃってくれて、こん な所に来る時間があたったら、選挙運動しなさいと、ゲキを飛ばしてくれたそうである。選挙はとかく ダーテイーなイメージがあって、みんな嫌うけど、こんな選挙運動がこれから増えてくる予感がする。 組織を使っての動員、業界あげての応援、当番制の選挙運動員なんてのは古すぎる。応援したい人を好 きなように、自分の責任で応援する。この辺が出来ない人は、結局人生も人任せで進んでしまうと思う。 でも、こんな私のわがままで家族や会社に迷惑をかけているのも事実である。本気さと実生活の整合性 が難しい、今日このごろである。


1997年11月27日

もち工場の、改造をした。少し、餅つき機とシンク台をずらした。するとガス、水、湯の配管し直しが 生じて今日一日業者が入って作業をした。この工場のコンセプトは「柔軟性」したがってこのような改 造に備えて配管配線がすべて外部配管になっている。おかげで、一日で作業終了した。普通、壁を抜い たり結構大掛かりな作業になるところだが、簡単にすんだ。建設時に考え抜いて作ったつもりでも、や はり実際作業を開始してみると不都合は絶対に生じる。今回の改造で大幅に作業スペースが取れるはず である。
今晩、松任市議会議員選挙で、私が応援している常光利惠さんの立ち会い演説会で、応援演説をしてき た。いつものように、大きな紙にポイントを書いて分かり易く、新しい福祉の考えを話した。自分でも 上手く行ったと思った。しかし、事件はその直後に起きた。私の前に応援演説をした、金沢福祉専門学 校の校長先生が、「ゴトン」という音とともに倒れてしまったのである。会場は騒然としたが、気道確 保、心臓マッサージと私など出る幕のないほどの救急法を施した。しかし、救急病院に運ばれたが、ど う孔はまだ開いていないが、心臓に管を通す重体で予断を許さない状況になってしまった。
この校長先生が、体の不調を押してまで常光さんのために連日、会社まわり、同窓会まわりを繰り返し た本気さを見て、初めて選挙は奇麗事ではないということを実感した。自分は、青年塾の卒業論文のた にめ、軽くやっていたのではないだろうか?焼け石に水かもしれない、たった一人の市議を生むために ここまでしなくては、世の中は変わらないのか?自問自答してしまった。
あんまり、選挙のことはこのHPでは、深く書かないようにしていたが、今回は声を大にして言いたい。
「どうか、あなたの一票を常光利惠に下さい。」
4/13.6/30.10/19参照、アグリネットワーク4/12参照


1997年11月26日

毎晩のもちつきと早朝の配達で、相当ばてて来た。午前中さらに昨晩急に申込まれた4H(中村君の日 誌参照)の若者の見学があった。1時間ちょっと話したが、最近の青年農業者は真面目な方が多くて頼 もしい。人の話を聞く態度が、さわやかな今日の見学だった。
やはり、50歳を超す方々の農業者で聞く態度が素晴らしい人は、ほんの一握りなのは残念。さらに、 農業関係の役所で上へ行くほど、少なくなるのも残念である。そんな中、一生懸命がんばっている公務 員の方々にエールを送りたい。我が社に、志高い農業の話を聞きに来る事自体、世の中もう何をして良 いか、何を基準にしたら良いか分からなくなっているのだと思う。


1997年11月25日

今日は、午後から選挙カーに搭乗した。松任市は隣り町なのに全然道を知らない。あんまり、運転手と しては役に立たないが、ナビゲーターがいるのでなんとかやっている。細かい道路や、交通量の多い道 路での運転には自信があるので、その点は問題がない。
最近のCMでホンダDNAというのがあるが、あの宣伝が実は大好きなのである。一向宗の血を引いて いるがごとく、私は今もホンダイズムが好きである。わずかの期間だったが、ホンダのDNAは受け継 いでいると思っている。


1997年11月24日

昨日は、一日家を空けたが、家族がみんな風邪気味で帰ったら、雰囲気が悪かった。今日は、一日家に いることにした。やれ、廃品回収の準備だ、空き瓶を酒屋に持ってけだの、皿洗い機の修理だの雑用を おおせつかって夜まで過ごした。夜は、もちつきだが、今日は報恩講用のもちで通称「ほんこさん」の お供えものだ。今から500年前に、この地域は「百姓の持ちたる国」と呼ばれ世界的にも珍しい農民 の自治が行われた。その時の、宗教的バックボーンが浄土真宗で蓮如という方が中心になっていた。そ の時の集会が「ほんこさん」である。今も、この辺ではちゃんとやられていて、この時期、それ用のお 餅の注文が増える。小さいし、数もバラバラ、日も集落ごとバラバラなのでやりにくい商品だが、特別 の思いを持って最近は作っている。私のDNAには当時の百姓のものが、確実に入っているはずだから 、あなどれない。


1997年11月23日

朝5時半に起きて、6時半には、事務所に行って選挙カーを取りに行って、警察に持っていった。選挙 カーもレースの車検みたいなのがあって、色々計ったりして、あとは選管からの許可証を待つだけだっ たが、2時間も待ったが来たのが1番だった。びっくりして聞くと1番クジを引いたそうだ。ポスター も1番だし、結構幸先の良いスタートだった。その後12時間ほど、運転をしたがトラクターで慣れて いるので案外低速運転は苦にならなかった。しかし、寒いのに窓を開けているのはさすがにこたえた。
この選挙事務所や選挙カーすべての集会が、たばこ臭くないのが、非常に好感が持てる。とにかく、選 挙事務所や車の中での喫煙には閉口してしまう。おかげで、さわやかに1日を過ごした。食べる物も、 手作りなのでおいしいし、大体ほぼ全員主婦なので、なにかにつけ細やかである。
その分、男の仕事は増えるが、普通選挙事務所に居る男性陣は、たばこふかして、あーだこーだ言って いるだけなので、優秀なスタッフ数人で十分である。その優秀というのは、もちろん私だ。


1997年11月22日

昨日の懇親会で、いつものように飲み過ぎて、二日酔いだ。とても志し高い状態とは言えない一日だっ た。しかし、明日告示なので選挙カーを事務所に持っていった。アンプのバッテリーやらなんやら、明 日の警察の検査も私が、いつのまにか係りになっていたので、明日は6時半には行かねばならない。
おまけに、夜友人の主催で利き酒会がある。昨日の今日であんまり飲める体調ではないが、幻の菊姫が 飲めるはずである。子供と、温泉に行くついでに行こう。


1997年11月21日

午前中は、三日連続の講演の最終があった。農林水産省、つまり霞ヶ関からの農業法人の調査だった。 ここぞとばかりに話をしたが、さすが3日目となると疲労感があったが、志高い農業法人経営につい て語った。針の穴でも、少しずつ風穴を開けていかねばならない。その為には、焼け石に水でもいいじ ゃないですか。と話した。人は変えられないが、自分は変えられる。そして、農業者自身も今の農政へ の、依存的体質を改めねばならない、と締めくくった。
例の調子で、補助金はモルヒネとやったので、少なからずびっくりされたと思うけど、こんな私の話を 聞いてくれる人が少しでもいらっしゃったことは農林水産省も捨てたものではない。
今晩は、PTAの懇親会がある。あいかわらず片目だが司会が、任命されている。うまくいくだろうか 。


1997年11月20日

お向いの、オバアチャンが亡くなってしまった。おまけに親戚なので、今晩お通夜で明日葬式だが、究 極のタイトスケジュールになってしまった。もちつきの予約を縫うようにPTAや、会議、その他の会 合そして、選挙の準備で走っているので、きつ過ぎる上にさらにきつくなってしまった。なんとか、色 々工夫して、やりくりしたら選挙カーを今日レンタルしてくれることになって小松まで取ってきた。そ して、アンプとスピーカーとカンバンをここに来て取り付けてくれることになった。今度の23日告示 の朝には警察署で検査を受けなくてはならないのいで、ギリギリの状態でなんとかなった。
主婦が中心の後援会なので、必然的に車両関係は自分に全権がきてしまった形だが、色々な仕組みが分 かって勉強になる。今回は、選管からもらう資金だけでやろうという、一般的には無茶なことに挑戦し ているので、すごく頭を使う。逆に言えば、このようなアイデアが展開できる候補者でないと21世紀 型の議員にはなれないと感じた。夕方になると、みんな家族の食事を作りに帰って行く後援会事務所も 珍しい。


1997年11月19日

昨晩の親子料理教室は、ほとんど難民キャンプ状態だったが、上手く出来たもので、なんとなく料理は 、完成した。そのあと、私のマーケテイングの先生が金沢に来ていらっしゃったので、金沢の繁華街ま で出かけた。久しぶりに会って結局午前様だったが、相変わらず切れが良かった。私の数少ない理解者 でもある。
二日酔いで、迎えた朝から、北陸4県の農業改良普及員の研修会で2.5時間話した。志高い、普及と はと、熱弁をふるったが非常に消耗してしまった。少しでも私の波動が伝わればそれでいいと思う。
午後は、目医者に、長男と出かけた。学校の検査で視力が弱いと言われて、再検査したが「近視」とい われた。すごく、ショックだった。普段、あんまりそんなそぶりがなかっただけに、油断したのかもし れない。悪くならないように、これからが勝負だ。


1997年11月18日

一日、大荒れの天気で、事務所にこもって色々書き物をしていた。夜は、PTAで親子料理教室があっ て、その後、ちょっと偉い人たちと飲み会がある。最近の中村君の日記を見たら、英語に変わっていた 。グローバルになったもんだ。
目の方が、独眼流なので、車に乗れないのでこもるしかないが、会う人会う人に、どうしたのと聞かれ るが、あまりにも偉い人と、会って目がつぶれたと言ってある。鍵山社長さんを始め、1メートルも離 れていない所で聞いているので、確かに眩し過ぎた。


1997年11月17日

帰ってきたら、鍵山社長より、「日本のお米」のカレンダーが届いていた。先日の「あしたも晴れ」の ビデオを見て欲しくて、渡したら「林君、素晴らしいお米のカレンダーがあるんだが知っているかね。 」と聞かれたが、知りませんと言ったら、その場で本社に電話して問い合わせてくれた。それだけでも 感謝なのに、現物がもう届いていた。飛び上げるほど感動しました。「一流の経営は特化することです 。100人見ても100人そう思うような事をしなくてはなりません。」という言葉とおりの出来事で した。さっそく、お礼のハガキを出したのはゆうまでもありません。
これで、青年塾の研修は終了したが、実はこれからが出発です。すでに上甲先生の手からは放たれてい ることを認識して最後の修了式に向かっていかねばなりません。
目の方は、やはり傷は付いているので、しばらくコンタクトが出来ない不便が続きますが、いい機会な ので家で休んでいました。それを助けるように雨も降り続いています。加藤茶のオヤジメガネみたいな のをかけて今もこれを打ってます。中村君も疲れている見たいだし、耐久レースのピットインです。


1997年11月16日

青年塾最終日は、部下のやる気をなくす10ヶ条と、修了式の話し合いがあった。昨晩、深夜まで飲ん で話し込んだので、朝5時半起きのトイレ掃除は、死にそうだった。そしたら、左目の角膜がどうも傷 が付いたようで、痛くて目を開けていられない。帰りの新幹線ではコンタクトを外して片目でいたが、 遠近感がつかめず苦労した。


1997年11月15日

青年塾二日目.今回の時事テーマは,第2次世界大戦 前後の日本の歴史を発表した.なかなかレベルの 高い討議を通じてこれからの日本の未来を考える機会 だった.その後,散策という名の箱根登山をした. 最初は片道の予定が,往復になってしまった. 明日は,足が痛いだろう.


1997年11月14日

青年塾一日目.箱根は,やっぱり雨だった. 完全に雨男になってしまった.初日は,鍵山社長との 質疑応答だったが,私が思っている新しい農業法人の 考えを話したら,アメリカンスタンダードが通用 しなくなったという答えだった.損得のみの考えの 限界を熱く語っておられた. 自分の考えを一流の経営者に認めてもらって嬉しかった.


1997年11月13日

朝、いきなり常光利惠さんより電話があり「選挙カーの契約に行って欲しい。」といわれ「ハイ」と言 ってしまった。実は、明日の箱根での青年塾を控えまだ課題発表の準備が整っていなかった。しかし、 常光さんの場合、「志の戦い」であり青年塾で勉強してきて、この手の戦いは必ず厳しいと実感してい る。したがって、最優先ですることにしている。2月の志の発表の課題対象になっているので、「ハイ 、落ちました。」では済まない。絶対に、当選してもらわないと困る。さらに、一番困るのが、志の高 い議員さんが減ることである。この方の、脳みそは最新のDNA−CPUで動いているので、私も、最 高性能で話の出来る、数少ない人の一人で、話をしていて小気味がいい。
中村君は、デジタルなので私が全開で話すと、ショートする時がある。処理が、01だとファジーな処 理に手間どってしまう。私は、つい主語述語を忘れてしまうので、まったく通じない時がある。その中 村君が、明日私と入れ替わりに韓国から帰ってくる。では、箱根に日曜日まで行ってきまあーす。


1997年11月12日

タニヤンから、借りた大黒摩季の「Power of dream」を聞いて久しぶりにトラクターに 乗った。私も大ファンだが、まさかタニヤンもファンだとは思わなかった。
午後は、もう来客の嵐で会議室も休憩室も使っても足りずに、立ち話になるシーンもあった。重なる時 は重なるものである。昨日の巡回では、エヴァンゲリオンみたいな農家もあって、つくづく我が社が縄 文式農業だと思った。思想は、21世紀型だが装備が、打製石器に近い。何十馬力ものトラクターに見 たこともない、アタッチメントを付けてレーザー光線を打って耕す光景は、想像するだけでスゴイ。


1997年11月11日

早朝から、石川農業青年会議で会員の巡回をした。加賀市から鳥越村そして松任と夜までかかって回っ たが案外地元でも初めてのところも多いので勉強になった。少なくなったといわれる農業者だが、みん な、がんばっているなあと感じた。明日から自分もがんばろうと思った。
今年の、このHPの日誌のCD−ROM化を考えていたが、見送ってしまった。私の名刺代わりに作る つもりだったが、決算がトントンか赤字かの瀬戸際では、贅沢は言えなかった。今年は、パンフレット もリニューアルするので、何かと物入りなのもあるし、ここは我慢である。残念。


1997年11月10日

やはり、二日酔いだった。一日無駄にしたような気分だ。そろそろ、青年塾の準備もしなくてはならな いので、締めてかかろう。
地元の、サイバーマガジンの取材があった。このHPをありがたいことに、載せてくれるそうである。 「萬屋」という本を見かけたら買おう。我が社のは来月号らしい。最近、バーチャルストアがはやりだ が、検索は太平洋のど真ん中で、林農産を探すようなもので大変である。やっぱり、活字で色々宣伝し ないと、待っているだけでは誰も見ないし、注文なんて夢の話である。
中村君の消息が再び途切れた。カザフ戦は見たのだろうか?


1997年11月9日

配達の後、消防で消火栓のペンキ塗り。そして、今からいつものように一杯やりに行く。我が団は、 割とおとなしいが、昔から消防団はヤンチャ者が多いのは今も変わらない。だが、あってそんな中でも 上下関係や規律が保たれている。私のような、傲慢な人間には十分修行の場である。
ペンキ塗りのあと、消防車と小型ポンプの放水をして確認、整備をする。これは、毎月しているが、私 は、いつもサボリ気味である。小型ポンプは、普段移送車と呼ばれるワゴン車に搭載されていて、いざ という時に、二人で抱えて運べる重さのポンプである。阪神大震災の時、道路が寸断されても使えたの で最近全分団に配備された。各町内の自警消防団にも積極的に配備されて、訓練大会も力が入っている 。500ccのモトクロスのエンジンみたいのが付いていて、パワーは消防車と互角であなどれない。


1997年11月8日

天気が良いのに、トラクターの新しい方が壊れたままで、古い私のトラクターで耕している。一台だと はかどらないが、クラッチ破損で立派なキャビンを外してバラバラになっているので仕方がない。今晩 も、ありがたいことにもちつきがあるので、カザフ戦は前半だけ見て仕事だ。
21世紀型のセールスマンは、いかに仕事に関係ない事をするかだと、言う話を聞いたが、我が社は完 璧だ。ほとんど、仕事以外のことが多い。ちなみに、明日は配達のあと、防火訓練で出動で消火栓のフ タに黄色のペンキを塗って回る任務がある。テレビに出る分、虚像が出来ないように、まめに出ないと まずいような気がする。


1997年11月7日

なんと「ぞうきん2号」の飼い主が現われて連れていってしまった。次男はガックリだろう。せっかく エサも買ってしまったのにどうすりゃいいんだ。
中村君から3日分の日記がファックスで送られてきた。人の文章を書くのは疲れる。おまけに、私と互 角の字の汚さだ。やはり、言葉は大変みたいで、中村君のような「デジタリアン」は「大体」とか「あ いまい」とかいう回路がないので、きっとスタートレックのスポック状態になって、韓国の方々に迷惑 をかけているのではないか心配だ。さっき、電話もあったから生存していることは確認できたが。どこ にいるんだ?と聞いたら、「さあー分かりません。」という返事だった。
午前中は、アフリカ音楽のコンサートが小学校であって役員として出て、午後は宅配の契約をして中村 君の日記の更新をしたら終わってしまった。宅配は最近はやりのコレクト便を少しやってみようと思っ たのと、今までは宅配を取り扱い所まで持って行ったが、おかげさまで結構、頻繁にあるので契約をし た。これで、電話一本でOKだ。


1997年11月6日

有機肥料散布田に、カルス菌をまいた。いわゆる、有効微生物と呼ばれるものだが、私の米栽培の師匠 推薦のものである。EM菌、VS菌、V34、ラクトバチルス菌やら星の数ほど最近は出回っている。 師匠いわく、目的に応じて使えということになるが、我が社の堆肥が使いにくく、面積が大きいとカル ス菌になった。この菌は、嫌気性菌と言って、空気を嫌うので散布の後すぐにトラクターで耕してやら ないとだめなので、この天気の悪い時期はタイミングが難しい、散布したあと雨で作業が中断と言うわ けにはいかない。
天から降ってきた子猫の名前が決まった。バザーちゃんではなくて、「ぞうきん2号」と名づけられて しまった。我が家に来る、子供の友人が去年夏に死んだ「ぞうきん」を覚えていて、そうなったらしい が、子供たちにとっても「ぞうきん」はインパクトがあったみたいだ。大体「クロ」とか「ミー」とか あとで大きくなって後悔する「チビ」とかが定番だろう。
中村君からの連絡が途絶えた。捜索願いを、いつ出すか、それが問題だ。


1997年11月5日

会計士さんと、今年の予想をした。うまくいって、トントンという結果だったが、 このご時世でトントンは奇跡に近いが、おそらく米価は2年前の半分まで下がると言う悲観的予想 がある。今のうちに体力をつけておかないといけないので、トントンはマズイ。 志は、普通以上あると思うので?とにかく「知恵」が勝負。
最近、「有機」や「無農薬」の表示が問題になっている。 そこで、急きょ我が社の有機肥料使用の米の名前を有機コシヒカリから「普通じゃないコシヒカリ」 に変更した。 一言で有機栽培と言っても千差万別、もしある栽培法が有機とされてしまうと現在製作中の パンフレット等がすべてダメになってしまう。 ここは、先に手を打っておくことにした。大体、有機、無農薬、おいしい、うまいという表示自体古い し、不明確で生活者もアキアキしている。 減農薬にいたっては、1%減らしても減農薬だから本当にあてにならない。 ここは、思い切ってそのような表示を一掃するのが、我が社の理念に合っている。
おそらく、将来は現在の「普通じゃない」方が、「普通」になるのではないかと思っている。


1997年11月4日

朝から、会合ばかりでなんだか、せわしない一日だった。おまけに、会合の帰りに火事が地元で発生。急いで行こうとするが、国道はいつもの渋滞で結局何も出来なかった。この時期は、もちの段取りで何かと心騒がしいのに、これでもかとスケジュールを埋めるような事があって、パワーザウルスの予定表も満杯状態である。
最近、ついているお餅は、42歳の厄落し、還暦のお祝い等に使う「祝いもち」と呼ばれるものである。私の地域では、2升位のお餅を知り合いに配って、厄を大勢に担いでもらうという習慣がある。紅白のもちを、干しイワシを腹合わせでのし袋に入れたものを付けて配っている。本当に地域限定の商品で、おそらく金沢周辺だけかもしれない。この辺は棟上げの時の、もちをばらまくという習慣はない。一箱4000円前後のものを10箱以上注文するのだから、かなりの出費だが根強く残っている風習である。我が社では、そんなデカイ餅をいきなりもらっても、なかなか食べ切れないので、包装もちのセットも提案させてもらって好評を得ている。風習も時代を経て、形を変えて来ている。それに、追随していかねばならない。
今日から、中村君の日記も更新をすることになった。「ファックスで送ってきたら、しとくよ」と言ったら本当に送ってきやがった。2、3行にしてねと言っておいたのに、たくさん送ってきた。


1997年11月3日

例によって、昨晩飲み過ぎて頭が痛い一日だった。東京から志を持って富山に来た蛭田君も、色々苦労しているようだった。しかし、また鋭気を養って帰ったことだろう。ちなみに、中村君を空港まで送っていった時に、吐いていたので本当に鋭気が養われたかは定かでない。
というわけで中村君は、今日から14日まで韓国だ。昨晩も2時ごろまで我々と話をしていたので、全然準備してなかった感じでだったが、まるで隣町に行くようなナメタ感じで出かけていった。彼なら、たとえ宇宙に行くのでも、あんな感じだろう。


1997年11月2日

昨晩遅くまでついた、お餅を配達してから小学校のバザーに行くと言う、相変わらずせわしない一日だった。バザーはまさしく、バーゲンの戦場のようでめぼしいものは開始5分でなくなってしまう。我々の、本当の戦いはそれからでなんでこんな物を出すのと言いたくなるような代物を、口八丁で売った。最後は、持ってけ泥棒!だった。
バザーは、夕方までかかってくたびれたが、困ったのは会う人会う人が「テレビ見たよ」と言うので、ヘラヘラ愛想笑いをするのが大変だった。中には、ビデオにとった父兄もいて、後で回収しなくては、ウソがばれる。
そんなこんなで、家に帰ったら以前「天から降ってきた子猫」が小学校にいて次男が連れて帰っていた。よほど、うれしかったのか、すごくはしゃいでいた。仕方がないのでエサを買ってきて飼うことにした。普段、やんちゃな次男が、子猫にすごく優しいのは、違った一面を見た気がした。
そして、色々あった一日が終わって、やれやれと思っていたら、突然、以前研修に来ていた蛭田君から、電話がかかってきて、どうしたの?と聞く予想どうりすぐそこからで、結局彼は、メシを食べて、餅をついて泊まっていく。あ、そう言えば、中村君が明日韓国へ行く。準備したのかなあ。


1997年11月1日

昨晩は、しじゅうから花の会の常光利惠さんが、松任市議会選に出馬を表明するというので出かけて来た。びっくりした。福祉に対して高い志を持ったひとだから「出たい人」より「出したい人」という当然の帰結だろう。隣の町だが、応援に行かねばならない。青年塾の志研究の対象者でもあるので、絶対勝ってもらわねばならない。
今日は、朝から小学校のバザー一色で、野菜や花を取りに行ったり、商品を並べたりで夕方までかかった。こんなにたくさん売れるのだろうかと心配になる。まあ、楽しみながらやればいいと思っている。それにしても毎日、寒い。昨晩はアラレが少し積もっていた。





このページのTOPへ


ご意見・ご感想、お待ちしております。
E-Mail koyo@karatsu.ne.jp
TEL (076)246-1241
FAX (076)246-3113